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鏡に写る我が醜貌 ver.0.11

深海の底では骸骨が嘲笑って、天上の月では兎が餅をついていた――――by蜻蛉
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03.19.17:03

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03.20.01:07

「―――見ろ、そこに転がってるのが今だ」

かつて、このような体験をしたことがあるだろうか。

苦痛ではない。葛藤だ。

迷いと討論は人の中に激しく思考の渦を展開し、一瞬にして脳髄を支配する。

渦は全ての思考を飲み込み、たった一つの『中心』へと向かってその模様を作る。

その模様の形が、俺には信じられない。

結局、俺は非情になどなれなかったというのか。

それは違う。―――否、ただの勘違いか。

そんなものはいい訳に過ぎない。

後悔が無いのであれば、何故俺は今までこうして過ごしてきたのか。

後悔が無いのであれば、何故他人の涙に胸を痛めなければならないのか。

それは他人の涙でなかったからだ。

なら、誰の涙なのか。

―――ふざけたことを。

「あなたは、非情になんてなれない」

一体誰の言葉だったか。

「あんたは過剰に人に優しすぎるのよ」

愚論だ。ただ、弱いだけ。

「俺もお前も、意思が弱いよなぁ」

否定など出来るわけが無い。

「逃げるんなら、逃げ切ってみろよ。それが逃げた人間の末路さ」

追いかけてくる人間の意志と力は、あまりに強すぎる。

「俺にお前の考えは分からんわぁ」

分かってたまるものか。辛いのは、被害者だけじゃない。

「そんなんじゃダメよ。一歩前に進まなきゃ」

いつまでもスタートラインに縛り付けられている俺は、どうすればいい。

「あなたが嫌いにならなければ、俺から嫌いになることなんてない」

憎んだ。恨んだ。絶望した。
ふざけるなと毒づき、馬鹿だなと自嘲し、なんてことをと堕落した。
なのに何故、憎めない、恨めない、絶望しきれない。
―――何故、嫌いになれない。

「なぁ、真反対の人間ほど似ているってことないか?」

あいつと俺は真反対。だが似ている。
奴と俺は真反対。だが似ている。
あなたと俺は真反対・・・・・・。

「二度と追って来れないまで、逃げてやるよ」

俺は、遥か先の物陰から過去を振り返っていた。

「そういうことは、キッパリとしてんだ俺」

現実から目をそむけ、一体どこへ行こうというのか。

「相手のことを思いやれないクズなんて、死ねば良いのに」

同感だ。だから俺は、苦しむ。

「そういう人がいたら、その考えも変わると思います」

なら俺の想いは、偽物だったのか。
あの頃感じた何かは、全て紛い物だったというのか。

だがあの頃、俺は不器用なりに決意した。

「このままじゃ、俺が壊れてしまう。終わらせなきゃ・・・」

自分勝手で、クズな決断だったと思う。
だが、それでいい。
見つめなおす時間が必要だった。
それはとても長く、1年や2年では足りない時間。

「弱い人間には試練を、強い人間には祝福を。なんとも微妙な世界だよな」

打ち勝たなければ、祝福など訪れない。
弱きものが祝福を求めれば、滅する道のみ。

「時が、解決してくれるよ」

時間が足りない。
時間が足りない。
時間が足りない。

それは本当か。
時間が足りないのではない。力が足りないのだ。

求める力が。
救う力が。
立ち上がる力が。

たった一つの勇気が、足りない。
たった一つの決意が、足りない。

「迷うんじゃないんだよ。選ぶんだよ」

葛藤など笑止。
与えられた選択肢など数少ないもの。
その一つを、指差す勇気が、足りない。

「一体何が正しく、何が間違っていたのか」

関係ない。
過去など、与えられた罰でしかない。
そこに正論も愚論も存在せず、ただある事実として追憶へと消える。

「何に注意し、何をさけるべきか分かったろう。次はうまくやれ」

教訓などという言葉は、知識でしかない。

「これはクイズではない。今ある状況を踏まえて、何をすべきかを思考しろ。知識を披露するのではない、知識を搾り出せ」

今ある状況のみが、全ての真実。

どうするのかなどという問いは無為だ。

―――どうせ、タイムリミットはそう遠くない。




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02.18.21:43

そう、それでいい。

全ては予定通りに進んでいる。
一点の曇りも無く、用意されたシナリオ通りに現実世界は進んでいる。
それは固定概念であり、誤解であり、真実である。
そう思ったからそうなるためにそうし、今そうなっている。
ならばそれでいい。
何の後悔も後残りも無いかと問われれば、無いとは答えられないかもしれない。
だがそれでいい。
そう、運命があるというならばそれだ。
運命というのはそう決められた未来のことを言うのだろう?
ならばそう決まっていたとしか言いようが無い。
理由も理論も原因も結論も無い。
ただそれが、運命だったからだと片付ける。
だからそれでいい。
今、前に進むと言うのならば俺は喜んでそれを見送ろう。
いや、見送る必要など無いのかもしれない。
それ以前にそれは不必要である前に拒否対象であるに違いない。
だがそれでいい。
そうなる運命だったのだろう?
あれが運命であったならば、これが運命でないはずがない。
そしてそれは過去になり、追憶に消えていく。
懐古とて既に罰。
ならば振り返る必要などありはしない。
現実と未来を見据え、ただ待ち構える結果へと足を踏み出すのみ。
俺が挑むのは悲劇か喜劇か。
動き出す時計の針は止められても、廻りだした世界の時間は止まらない。
立ち止まっていても時は進み、世界は変わる。
だが止まっていては自分は動かず、世界は変わる。
ならば、出来ることは何なのか。
思考と理論と統計を限界まで搾り出し、今何をすべきか結論を出すがいい。
―――さぁ、行こう。




と、なんだか書いてみました。
特に意味はありませんが、ある意味今の俺の心情でもあったりなかったりですなw

まぁ某友人からこの中にあるある言葉を使え使えって言われていたので、いずれこんな感じに小説に使う予定でありますが何か?(ぇ

この文にはある矛盾があります。意味を言うならば
『望んだならば、望むように動けばいい』と『どうしたところで、運命と名付けられるのならばそうする他ない』という点ですね。
運命論というのには賛否両論あるでしょう。
この文がどちらを言っているのかは、正直自分にも分かりません。想像にお任せですね。


俺の小説は時々上記のような哲学的なものを言う所が終盤になるにつれ多くなる予定です。
23話のあれもそうですね。

「春夏秋冬、という言葉は知っているな」

「これは固定概念であり、真実だ。春夏秋冬というように、季節は『春』に始まり『冬』に終わる。だが、『春』が始まる前は『冬』であり、季節に始まりも終わりも本来はないはずだ。春夏秋冬という言葉は語呂の良さで決められたといっても過言では無いだろうな」

「しかし、今物語は『春』から始まろうとしている。『冬』はそのために時が過ぎるのを待ち、季節が巡るのを今か今かと期待している。そして、『春』が巡ったとき、季節は一巡するのだ。『春』『夏』『秋』そしてまた『冬』へとな」


まぁこんなのを書くのが大好きな人間ですのでw
もしかしたら上記の奴がそのまんま使われる可能性も否定できないかもw

なんか、名言みたいなのがあったらドンドン教えてくださいませませw

12.04.14:37

いじめとは、永久不滅の事件だ

最近ニュースでよく取り上げられるようになった事件。

「いじめによる自殺」

ついには政府までもが真面目に動き出すこととなったこの事件は、もう日本のかかえる大問題として受けとってもいいだろう。
政府も頑張って対策を練っていると思うが、あなたたちの運動は残念ながら「撲滅」ではなく「ちょっと減少」である。

いじめに対する俺的な意見を書かせていただこう。

 

「いじめは永久不滅である」
先に結果論を言うが、俺はそう思う。行動しないよかは行動したほうがいいが、結果的にそれがなくなることはまず絶対にない、ということ。

いじめというのは、「いじめる側」と「いじめられる側」がいるわけだが、これが存在する理由というのが間違いなくあるのだ。

もう長々と語るのは面倒なので、スパスパと進むけど、この二つが存在する原因は、間違いなく「いじめられる側」にあると思うわけだ。
原因、と言ってしまうとかわいそうかもしれないが、そうだと思う。確かに彼らは皆、心の弱い人間なのだ。
やり返すことも出来なければ、誰かに助けを求めることも出来ない。
だからといって、自分で解決の糸口を見つけられるわけでもなく、そのままの関係が続き、ついに耐え切れなくなったときに有り得ない行動に出てしまうのだ。
つまり自殺が起こる原因はこうであったというわけだ。

 

それを少しでも止めるため、カウンセリングという人が学校にいる場合が多い。
彼らの存在は確かに自殺などを食い止める手段として非常に有効であり、心強い限りだ。
だが、考えて欲しい。
自殺を考えている人間が、自らカウンセリングを受けに行くことなんてのは、めったにないような気がするからだ。良く行くならば、自殺の数が増えるわけが無い。
だからといって、カウンセリングの先生に連れて来い、といってもそれも難しい話であろう。
もし、そういう状況にある人が分かったとしても、嫌々連れて行くわけにもいかないし、まずその状況に立たされている人間を探すのが有り得ないくらい難しいと思う。

彼らは自分の中にしまい込むタイプなのだ。
たとえ、親友が相手でもそれを話すことは滅多にない。
形として現れるのは、不登校になるとか、急に付き合いが悪くなったりとか、酷い場面に入ってからだ。
そうなる前に食い止めれば最高なのだが、かなり難しいと思う。

分かるチャンスは限られてくると思う。
学校などで、一番その人と接する機会が多いのは、「二者面談」。このタイミングで、彼らの闇を見つけ出せると一番いいと思うのだが・・・・厳しいか。
漫画などでは、唯一無二の親友は気づいてくれるパターンが多いが、現実的には不可能に近い。
ヒントも無しで、第六感のみで問題に答えろといっているのと同じくらいだ。

そうなる前に食い止める方法というのはどれもこれも厳しい。
だから思うのだ。そうなる前に食い止めるのは、彼ら自身なのだと。
彼らが変わってくれなければ、誰も気づかないし、誰も助けられない。
でも、彼らが変われば少しはなんとかなるかもしれないのだ。

いじめられている人は、世界をあまりに過小評価しすぎていると思うわけだ。
案外、寛大な心を持っている人間は多いと思う。
ちょっと勇気を出して、カウンセリングの先生なんかに話しかけてみるといい。
それだけでも、十分違うと思うから。

 

さて、ここからは「酷い事態に入った後の攻略法」といったところか。
もし食い止められなかった場合。いじめが発足して、事件まで発展した場合だ。

最近ラジオで聞いたのだが、いじめた人は何ヶ月か学校に来れなくなるらしい。
いじめた人が学校に来なくなったら、はたしていじめられていた人間は学校に来れるのだろうか?
確かにいるよりはいなくなったほうが来やすくはなるとおもうが、あまりに蛇足な努力だと思う。

いじめられた人間というのは、たとえいじめた人がいなくなったとしても、恐らく学校という場所に自分の居場所を見つけられないパターンが多いような気がする。
いじめた人間には良い反省材料になるとは思うが、なんかそれも一時的なようなきがする。

あと、この政策でもうひとつ問題がある。
今日ヤフーのニュース欄でやっていたが「いじってもいじめ」という項目があった。
ちょっといじっただけ、自分から見ればそうでも相手から見たらかなりのダメージを負った。なんてパターンは多々存在する。
これは、一言にいじった人間を攻めることは出来ない。
人間の価値観が違うように、いじられたときにどう思うかなんて千差万別だ。
いや、二パターンしかないけどね。
だが、それもいじった人間を学校にこさせない、なんてしてしまったらどうだろうか?
それこそ、学校においての人間関係の冷却化に繋がりかねない。

人をいじると学校にこれなくなる、という恐怖感に怯えて、人と接しなければならないのだ。
こんな閉塞的な生活は無い。学校という場所は、確かに勉強するところであるが、一番は友達と接するためなのだ。
それをここまで規制してしまうと、非常に厳しい事態になる、と思うわけだ。

それに、こんな事態も想定できる。
本当にちょっといじっただけなのに、相手はいじめられたと宣告し、学校にこれなくなってしまう。こんな理不尽んな話は無い。
ちょっといじったという事実がたとえ判明していたとしても、いじめられていた本人がいじめられたと思えば、それは立派ないじめになりかねないのだ。
人の強さは人によって違う。
政府が安易に手を出して、規制を作ってはいけないと思うわけだ。

 

この解決策はただ一つしかない。
「周りの人が、接してあげる」しかないのだ。
親が、先生が、友達が、彼らを助けてあげなくて誰が助ける?政府か?違う、政府はバックアップ程度でいいのだ。
政府がうかつに手を出すと、上記のような事態になりかねないのだから。

こう思えば、いかに日本が冷たいのかが分かってくるかもしれない。
確かにいじめられている人間を助けることは、その標的が自分にも回ってくるかもしれない恐怖に打ち勝たなければならない。
だが、そんなことを言ってしまっては、元も子もないだろう。助けられる人はあなたがたしかいないのだから。

このように結果を出すと、やはり「いじめは永久不滅」と言う事が出来ると思いませんか?
人に助けを求めることをしない。
分かっていても、自分の身を案じて助けない。
こんな人間がはびこる限り、いじめはなくなりません。

 

彼らを救うのは、他の誰でもないあなた。
そう心に刻んでくれれば、少しはましになるのではないのでしょうか。