11.24.08:09
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01.15.12:36
久々にまずいと思った。
腹痛の帝王が、薬にまずさなんて感じないと思っていた時期が僕にもありました。蜻蛉です。 私こと蜻蛉と言えば、あまりの使用回数の多さから正露丸の丸薬(黒いほう)を噛み砕いて食べられるという荒業を持っているわけですが、そんな俺でも胃薬の「キャベジン」だけは吐き気を催さずにはいられない、という話は有名です(何 そんな今日、新たな刺客が。 風邪気味だったというのはブログで何度も言ったと思いますが、咳止めの「漢方薬」をもらったんです。 それがですね、 クソまずい。 いえ、キャベジンと違って飲めないわけじゃないんですが、何せ無駄に甘い。 和菓子を食べられない理由が洋菓子より甘い気がしてならないから(ブラジル菓子を除く)だっていうのに、つまりは甘いものはそんな好きじゃないってのに。 ()のブラジル菓子ですが、教会に何人かブラジル人がいるんですが、その人がたまにブラジルのチョコレートとか持ってくるんですね。 それが、言っちゃ悪いんですがクソまずい。 あまっ!舌が溶けちゃいそう!(もちろん悪い意味で 漢方薬とか、苦ければいいのに、無駄に甘いから飲むときむっちゃ苦労します。鼻つまんで飲もうかななんて思ったのは何年振りでしょうか。キャベジンは飲むことを諦めたので、もう手に書けることはないでしょうけど。 やー、まずい。何度も言うがまずい。 子供用の「つつんで食べるゼリー」とか買って来ようかしら・・・。 ■フィストの件 とりあえず修正できるところは修正しましたが、いかんせん誤字を見つけるのが苦手なようで、もしもブログでフィスト読んでいる方いましたら、誤字脱字の報告とかしてもらえればありがたいです。 しかし味ばかり求めていたせいか、面白いかと聞かれれば悩ましいところ。 まあ、普通ではないでしょう。と、逃げ道を用意しておきます。 ■課題の件 無事完成して、提出しました。 ぶっちゃけ推敲もなしのやっつけ仕事ですが、まあ気にしたら負けでしょう。最悪出せればいいやー、というまさにダメ人間思考だったのは秘密です。 そういうわけで、そんな僕が朝七時から十二時の間に、構成~原稿用紙手書きまでを終わらせるというまたまたバカみたいな荒業をした作業の結果を公開しようかと。 下書きはPCでやったので、原稿があるんだよ!!やった!! その前にコメレス。 >旺さん その準にゃんを認めたということは、真性ですね。 段々と恐くなってきました。仲間的な意味で。 ところで何度も聞こうと思っていたんですが、名前が読めません。教えてくれると飛び上がって・・・いやなんでもない。 以下、クリックで1800文字。 現代日本の小説といえば、私はまずライトノベルとケータイ小説が筆頭に上がる。これは皮肉でもなんでもなく、現代にあって平成以前に盛っていなかったものを単純に考えた結果だ。そもそも現代という時間がどの部分を指すのかが定かでないが、例えばここ十年の出来事だとするならば、私のこの考えもあながち間違いではないだろうと思う。今回、尾崎真理子氏の「現代日本の小説」という著書を読んで、またその考えが一層強くなったように思える。例に挙げられていた作者は村上春樹とよしもとばななを筆頭にして、純文学や大衆文学で現在も活躍するものたちだが、村上春樹等の作品の良さがいまいちまだ分からない私は、著書の第三章からに大きな共感を覚えた。それは、良い意味でも悪い意味でも現代に染められつつある小説界隈についてのことだ。 第一に、小説家の低年齢化という言葉がある。それは、例年の「小説家志望」の多さでなんとなく分かっていたことだ。敷居が決して低くもない小説家という役職にどうして若者が就こうと思えるようになったのか。その答えが著書にはあった気がする。第三章には、二〇〇四年に話題となったわずか十九歳にして芥川賞を受賞した綿矢りさと、同じく二十歳の金原ひとみのこと、パソコンとファックスの普及による執筆のやり易さ、賞の増加などが挙げられていた。この三点、最初と最後の項目は低年齢化に対して当然とも言える影響を及ぼしたと思うわけだが、二点目の電子機器を利用するようになった、まさに現代とも言うべき原因は新しい発見だった。若い人のほとんどがケータイ電話を利用しているように、中高生のほとんどがパソコンを利用しているだろう。その中で、ペンを握らずして小説が書ける環境というのが、どれだけ便利なのかは、実際にそうしている自分がよく分かる。更に言うならば、ケータイ小説というジャンルが登場した今、小説に対して隔たりを感じる要素というのは、案外もうほとんどないのかもしれない。第三点目の賞が増えたことも同様の効果があるだろう。一点目で見出した可能性に加えて、三点目では、有名どころを挙げていけばジャンプ小説大賞の乙一、メフィスト賞の舞城王太郎に西尾維新と、うち二人が十代の頃にデビューを飾っているのを見れば、いかに低年齢化が始まっているのかが分かる。また、これらの賞はライトノベルのジャンルに類似した部分があるという。そういう小説の新しいサブカルチャーの発達も低年齢化に一役買っているんじゃないだろうかと思う。そうしてこれらが、今の小説を作っていっているのだろうと思った。 執筆者がこうして現代に染められていっている中、文章もまたこれらの影響を受けていると思う。目に見えて分かるが、昔の文豪と聞いた作家と現在の作家の作品を見比べて、同様の雰囲気を感じることは不可能に近い。純文学作家もそれには漏れず、現代に即した作品を生み出していく。著書では第四章に、文章の変化は、これまた第三章と同じように電子機器を介すことによって生まれたとしていた。それにも激しく同意を覚えた。引用されていた文で「まるで別人が自身の書いた文章をアレンジしているような~~」とあったが、その感覚は非常に理解出来た。自分で作ったご飯が美味しいと感じない、そんな不思議なものだ。これを著書では「多重人格化」と呼んでいたが、ぴったり当てはまると思う。現実と文面ではなく、既に文面の中で自身とパソコンの二つに分離されているのだ。もちろん悪いことではないのだろうけれども、現代人の感性を歪めているような気がしないでもない。電脳世界に溺れた、ある種の作為的な作品傾向に思えて仕方がなくなってしまう。著書の引用にはそうした多重人格化が新鮮で面白いと語る人もいたようだが、そもそもネット世代に生まれた私世代の人は、最初からパソコンで執筆を始めた人も少なくないだろうと思う。だから、少しだけ「手書き」というものを見直すのもありなんじゃないかと思った。 最後に、全く関係のない話になってしまうのだが、私は独自に「ケータイ小説文学論」というのを考えている。それを構築するにおいて、この著書に書かれていた数々のことが役に立ったのは言うまでもない。結果だけ言えば非常に収穫の多い本だった。これから現代から未来へと文学の形が変わっていく中、私たちはこういう変化に順応しつつも、「手書き」という手法を忘れてはならないだろうし、過去の文豪たちが残した軌跡を生かさない手もないだろう。本を読んで、私も一執筆者として、自らを省みる良い機会になった。 PR
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可愛ければ性別なんざ……。
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といっても、ケータイも文学か……。 |
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