最近本気で死のうかと一瞬悩んだことがある、僕こと蜻蛉です(ぇ
いえ、たまにそういう日もあります。若いので(何
世界は対価というシステムが出来ている。
何かを手に入れるためには、何かを失わなければならない。
当然のことだが、これがあまりに現実的で辛い・・・。
最近、何故自分の自己防衛のためにしたことが人を傷つけてしまったのか、悩むことが多々ある。
いや、結果的にそうなることは予想できていたし、そうなってしまった後の処理がクソだったから今でもこうして悩むことになるとも分かっている。
だが、今更どうしろと?という話だ。
優先順位というものが、必ず存在するだろう。
人との係わり合いの仲でも、それは必ずあるだろう。
親、友達、恋人、自分・・・。
何を一番と考えるだろうか?
これを、たまに友達に聞いてみることがある。
すると大体の友達はこう答えた。
『恋人』と。
まれに『友人』と答える人もいたし、『自分』と答える人もいた。
そして俺が『自分』派だと言うと、友達はそれはおかしいと言い始めた。
大切な人こそが、一番のものなのだと、彼は言う。
ならば俺は言おう。
それでも俺は、自分が大切だと。
確かに時に失いたくない人物はいる。それは確かだし、そのひとが死ぬくらいなら俺が死ぬと思うときだってある。
だが、俺は現実主義者で、すげぇクソな男だ。
こう、考えていた。
『死んでしまっては、自分を失ってしまっては元も子もない。自分を失うくらいなら、他人を放っておくことも俺には出来るだろう』と。
大切な人のために自分を捧げるのはとてもカッコいいし、名誉なことだと思う。
だがそれも、限度が過ぎれば俺は出来ない。
自分が破滅するくらいなら、多少迷惑かけても相手を破滅させる。
そんなクソ人間だ。
『自分の幸せと他人の幸せ』を天秤にかけたら、俺は他人の幸せを選ぶだろう。
これは、他の人となんら変わりは無い。
だが、『自分の破滅と他人の破滅』を天秤にかけたら、俺は他人の破滅を選ぶ。
これは、純粋な人たちには分からないかもしれない。
俺は、手に入れることが出来なくてもいい。だけど、失うことは嫌だ。
そんな人間なのだ。
他人のために、自分の幸せを捧げる?馬鹿な。
自分の幸せ無くして何故相手の幸せがあろう。
相手の幸せ無くして何故自分の幸せがあろう。
だが、これはあまりに難しい均衡である。
だから俺は思った。
どちらかが犠牲になるくらいなら、どちらも苦しめばいいと。
その先に何かがあるのなら、それを目指そう。
その先に何も無いのであるなら、時が満ちるのを待とう。
だから今、俺たちは苦しまなければならないのかもしれない。
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